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2005年12月20日

かすむ実像:男女共同参画社会 (その2) 科学技術における正しい積極的是正措置:大学入学定員男女同数化のすすめ

横山 浩

<異様に少ない女性研究者>
平成17年度版の男女共同参画白書は、科学技術における男女共同参画を大々的に取り上げている。資源小国の日本は、科学技術立国を国是として掲げ、知識ベース産業社会の実現を目指しているものの、皮肉なことにその要とも言うべき研究開発を担う人材ストックは、少子化と理科離れという二重苦にあえいでいる。今日の状況を放置すれば、近い将来に大幅な人材不足に陥ることが予測されており、その打開の切り札の一つと目されているのが、眠れる人的資源、すなわち女性の活用なのである。

日本の総研究者数は現在約83万人(2005年)[1]であり、これは労働力人口 1 万人当たり129 人 に相当する[2]。1980年には、今の半分の 1 万人当たり64人(総数約36万人)[3]であったが、毎年右肩上がりで増加し今にいたっている。現在では働く人100人に1.3人が研究者という、まさしく研究大衆化の時代に突入している。1980年以降増加した47万人に上る研究者の実に7割は、産業界が創出した新規雇用であり、このことは我が国が知識ベース産業社会に着実に近づいていることを物語っている。産業界のなかでも研究者の大半を抱える製造業だけに限れば、従業員10人のうち1人が研究者となっている。

研究者の質・量両面での更なる向上が求められるなかで、少子高齢化、人口減少、理科離れに抗して、このトレンドをどこまで維持できるのだろうか。我が国の研究者のうち女性研究者が占める割合を見てみると、過去10年にわたって僅かずつ増加してきているものの、ようやく11.9%に達したに過ぎない[図1]。全産業でみると、女性就業者が少なくとも数の上では40%を占めることを考えると、11.9%という数字は、科学技術が、突出して女性進出が遅れた分野であることを示している。

研究者数の年次推移と女性比率

図1.研究者数の年次推移と女性比率
平成17年科学技術研究調査より作成

国際的にもこのことは明らかで、米国(33%)、イギリス(26%)にも遠く及ばず、先進工業国では最下位と言ってよい惨状である。女性の労働力率が46%(就業者の女性比率は約30%)と、日本よりも女性の社会進出で遅れているイタリアでも、研究者の28%が女性であり、他の分野と同等の水準にある。つまり、イタリアでは研究も普通の職業なのに、我が国では研究は女性が参入しにくい(したくない)特殊な職業なのである。ちなみに、職業としての研究の特異性指数を、RA=1-(研究者における女性比率)/(全産業における女性比率)で定義してみると、日本はRA=0.7に対して、アメリカはRA=0.2、イギリスはRA=0.27、イタリアはRA=0.07、男女共同参画の優等生として有名なノルウェーはRA=0.34であり、研究における日本の異常性が浮かび上がる。平成17年度版の男女共同参画白書が科学技術を特集した意図も、この辺りに読み取ることができるのである。

研究者の女性比率の国際比較
図2.研究者の女性比率の国際比較。日本、アメリカは2004年のデータ。ノルウェーは2001年。ドイツ、イギリス、ポーランドは2000年。ポルトガルは1999年。
男女共同参画白書平成17年度版 第1-序-15図より抜粋


<男女共同参画学協会連絡会の提言>
それでは、研究を普通の職業にするにはどうすれば良いのだろうか。科学技術への女性の参加を高める必要性は、国内学会でも早くから認識され、平成12年12月「男女共同参画基本計画」閣議決定を受けて、平成14年には応用物理学会、日本化学会、日本物理学会などが音頭をとって理工学系学協会に呼びかけを行い、12学協会が参加する男女共同参画学協会連絡会を発足させた。連絡会は、アンケート調査を実施したり、シンポジウムを開催するなどの活動を通じて、平成16年には、「研究助成への申請枠拡大に関する提言」を公表し、非常勤研究者への研究費助成の拡大(女性が育児負担で常勤職に就きにくい現状に基づいて)や、女性科学技術研究者の育成を目指しているプロジェクトを積極的採択、を求めている。平成17年4月には総合科学技術会議に対して「第3期科学技術基本計画に関する要望‐男女共同参画社会実現のために‐」を提出した。要望は、
   1.「科学技術分野における男女共同参画モデル事業制度」の創設
   2.女性研究者・技術者の採用と昇格に対する数値目標の設定と特別交付金
   3.男女の処遇差を低減するための具体的施策
   4.育児支援の具体的施策の推進
   5.女子学生の理工系学部進学へのチャレンジ・キャンペーンの推進
の5項目からなっており、その骨子はいわゆる積極的是正措置(Affirmative action, Positive discrimination, Positive action)の必要性を認めた上で、社会、制度を数値目標も示しつつトップダウンに変革していくことを要請するものとなっている。例えば、「男女共同参画モデル事業制度」としては、”文部科学省科学技術振興調整費で参加研究者の中の女性が占める割合が30%を越えるプログラムを一定割合で採用する”ことや、採用、昇格に関して数値目標を設定し、評価基準を公開することを求め、”女性研究者割合が一定比率を超えた機関に特別交付金を与える”という報償を提案している。これを受けて、現在、検討の最終段階に入っている第三次科学技術基本計画にも、女性研究者を25%にするという数値目標が盛り込まれようとしている。

このような女性研究者へのあからさまな利益誘導と逆差別的措置が、本当に女性の研究への進出を促進するとどうして言えるのだろうか。この要望の基礎となったシンポジウムの議論や提言を見るかぎり、女性研究者が抱える研究上や生活上の日常的問題を解決することが、女性研究者の増加につながるという短絡的で底の浅い議論しか行われていない。アンバランスな現状を作り出した社会的・文化的・歴史的事象を客観的に分析し、問題の本質を追究して根本的な解決策を構築するという、科学者、研究者に相応しい冷静な姿勢が見えないのである。また、逆差別をナイーブに捉えていてその法的妥当性に対する真摯な検討も見られない。要するに、既に研究者になっている(あるいはその門前に迫っている)女性を、積極的是正措置により優遇することこそが、日本の貧弱な女性研究者層の問題を解決するのだ、という独善的な主張でしかない。その背後には個人の鬱積した不満や怨念の無闇な一般化ばかりが透けてみえて、主張の正当性の論理があまりにも希薄なのである。この議論のずさんさは、学会においてすら、男女共同参画には誰も異議を挟めない雰囲気が反映しているのではないだろうか。

<正しい積極的是正措置>
ここで再確認しなくてはならないことは、性差別のない機会均等が保障された社会制度のもとに、研究が男女両性から普通の職業とみなされ、実態がそれを反映したものとなる、それが当面の日本社会の目標ということだ。数値目標や一方の性の優遇を含む強い積極的是正措置は、このような社会を実現するための時限的な強権施策ではあり得ても、それは恒久的に是認されるものではない。公民権運動やウーマンリブを通じて、30年以上におよぶ積極的是正措置の歴史を持つアメリカは、一般市民、学校、職場から州政府、連邦政府、最高裁まで、多角的で深い論争と、その結果として困難なバランスを保ってきた経験を積み重ねて現在に至っている。米国における積極的是正措置の歴史と現状は、Stanford Encyclopedia of PhilosophyおよびThe Affirmative Action and Diversity Project (University of California, Santa Barbara)に簡潔にまとめられている。

積極的是正措置がその内容によっては、両性の平等という基本的人権に抵触する危険性をはらむものであることから、米国では連邦最高裁判断を通じて、適正な積極的是正措置が満たすべき要件として、(1)有効性と(2)公正性が不可欠のものとの考えが定着している。有効性とは、文字通り、男女平等な社会を実態として作るために、その施策が効果的であるかどうかを問うもので、効果がなけば積極的是正措置は正当化されないことを規定するものである。公正性はさらに、(1)非割当性、 (2)代替不可性、(3)柔軟性、(4)時限性、(5)均衡性、に細分される。非割当性とは、例えば、大学の入学定員を固定的に男女50%ずつに設定する、というような枠の割当(quota)を禁止するものである。米国では、このような割当の設定は明確に違法とされている一方で、社会の構成を反映するような数値的到達目標を置くことは合法とされており、大学や企業はその達成に向けて、相応しい能力・適性を有する候補者を積極的に募集する義務を負っている。積極的是正措置(Affirmative action)は、例えば、女性が少ない職種への採用においては女性の応募機会をできるだけ増やすよう可能な限りの努力をすることを意味し、職種が要求する能力・適性がない者を女性という理由だけで採用することを意味するものではない(公平性の観点からかかる逆差別は禁止)。このように、米国の積極的是正措置は、全ての国民の自由と平等という建国理念と整合させつつ、社会に根強く埋め込まれた差別をできるだけ速やかに取り除くための効果的措置を講ずるという点で、常に難しい舵取りを迫られてきた。近年ではとくに米国社会が保守化するなかで、30年に及ぶ積極的是正措置の役割は終わったとして、むしろ逆差別による弊害を指摘する意見が次第に強くなってきいる。しかし今のところ、国民の大勢は、1995年のクリントン大統領演説、"..When affirmative action is done right, it is flexible, it is fair, and it works...Based on the evidence, the job is not done.... We should reaffirm the principle of affirmative action and fix the practices. We should mend it, but don’t end it. ..(積極的是正措置は、正しく行われれば、柔軟で、公平で、有効である。・・・いろいろな証拠によれば、積極的是正措置の目的はまだ果たされていない。..我々は積極的是正措置の原理を再確認し、問題を正さなくてはならない。我々のなすべきは、それを修正することであり、終わらせることではない)"を支持し続けているように思われる[5]。

米国の比較的抑制された積極的是正措置に対して、よりアグレシブな施策で差別撤廃を一気に実現しようとするノルウェーのような急進的な国も存在する。現在、もっとも女性の社会進出が進んだ国の一つとなったノルウェーでは、あえて男女の割当枠を設けて、強制的に男女平等の実態を作り出そうとしている。かねてから法律で求められていた議会や政府審議会における男女がそれぞれ40%以上の議席を占めるという原則に加えて、最近の政権交代の結果として一定規模以上の企業の役員会にも同様の原則が適用されることになった。経済界からは、役員に求められる能力と適性を持った女性が不足しており、これが強制されれば経済の衰退を招くとして大きな反発が出ているが、政府は断固として譲らない姿勢を示している。

米国も決して一枚岩ではなく、積極的是正措置の完全廃止を求める強硬反対派も居る一方で、推進派のなかには、割当枠の設定も迅速な有効性があれば是認されるとのノルウェーに近い立場をとるものも少なくない。我が国が米国流を取るにせよ、ノルウェー流をとるにせよ、最も重要なことは、最大の効果を最小の副作用のもとで得るための借り物でない独自の施策を、日本の固有の社会・文化・歴史条件のなかで創造することである。

<なぜ女性研究者が少ないのか>
さて、日本の女性研究者が異様に少ない理由は何だろうか。男女共同参画学協会連絡会によれば、女性研究者に対する研究予算や昇格、給与などの処遇が不十分なことが第一で、研究と育児の両立のための支援の不足が第二、そして最後が女子学生の理工系学部への進学率の低さ、ということらしい。そして、女性研究者を研究面で優遇し、さらに生活を支援すれば、女子学生にとって研究者が魅力的な職業となって、研究者を志望する女子学生が増えるはず、という理屈である。男女共同参画学協会連絡会が傘下の学協会会員約2万人を対象に実施したアンケート調査「21世紀の多様化する科学技術研究者の理想像」の結果によると、女性研究者が少ない理由として、男女ともに「家庭と仕事の両立が困難」をトップにあげている(男51%、女60%)。次点は僅差で、女性は「男性の意識」(男25%、女49%)、男性は「女性の意識」(男44%、女44%)を指摘。「男性に比べて採用が少ない」という自明な回答も多数をしめている(男33%、女46%)。男女共同参画白書平成17年度版でも同様に、研究者において女性が少ない理由としては、出産・育児・介護等で研究の継続が難しいこと、女性の受入態勢が整備されていないこと、女子学生の専攻学科に偏りがあることが指摘されている。いずれにも共通して、我が国で女性研究者が少ない最大の理由を、家庭生活と仕事との両立の困難さや待遇の不備に求めている。

このことは、現場研究者の日常感覚としては共感できるところもあるが、それが女性研究者の少なさの直接的な原因であるという主張には、正直疑問を感じざるを得ない。女性研究者の境遇を改善すれば、より多くの女性が研究に参入するという考えは、将来の進路をこれから決めようとする小中高生(当事者)の目線ではなく、今の女性研究者の目線からみた幻影に過ぎないのではないか[6]。むろん女性に限らず研究者の待遇改善は、科学技術立国の一環として大いに進めるべきであるが、女性研究者の拡大策としては、江戸の仇を長崎で討つようなものであろう。事実、2003年に実施された「OECD生徒の学習到達度調査(PISA)」によれば、15歳の時点では、数学、科学、問題解決能力に男女差はなく、読解力は女子がわずかに高い。にもかかわらず、小学校から中学にかけて、女子が理数系を次第に敬遠する傾向が意識調査に現れており、高校3年時点までには、研究者、学者、エンジニアなどの理数系職業は、女子の将来の職業イメージの視野から見事にこぼれ落ちてしまっているのである。大学・大学院の理学系、工学系における女子学生の比率が10%からせいぜい20%という状況(図3参照)は、小中高校と続いてきた女子の理科離れの当然の帰結なのである。女性研究者の11.9%という割合は、この延長上にある。

大学学部・大学院における女子学生割合(平成16年度)
図3.大学学部・大学院における女子学生割合(平成16年度)
文部科学省「学校基本調査」(平成16年度)より[7]

小中高校の女子生徒が理科離れを起こすのは、女性研究者が家庭と仕事の両立に苦労し、十分な研究費を与えられず、昇進も遅いのを見てのことだろうか。小中高校の女子生徒にとって、研究開発の現場などは全く別世界のことであり、いわんや女性研究者がどうであろうが、自分には関係のないことと思うに違いない。女性研究者のロールモデルがないためだとか、研究現場の状況と小中高校の女子生徒の意識を無理やりに結びつける理屈はあるかも知れないが、それは全くマイナーな問題であろう。この視点から、より多くの女子生徒を理科系に向かわせて、研究者になってもらうことを目的とした積極的是正措置として、男女共同参画学協会連絡会の5項目の要請を見たとき、最初の4項目は、今の女性研究者の優遇策以上のものではなく、”正しい積極的是正措置”が具備すべき”有効性”という最初のテストにすら合格できない、お門違いのものであることが明らかになる。

残る「5.女子学生の理工系学部進学へのチャレンジ・キャンペーンの推進」は、女子学生にターゲットを設定したことは正しいと思うが、これとて月並みの感は否めない。長年にわたる理科離れに対処しようと、スーパーサイエンスハイスクールとか小中高生のためのサイエンスキャンプとか、既に文部科学省、学会をはじめとして多くの関係団体がさまざまな施策を行っているにもかかわらず、必ずしも期待されたほどの効果を挙げていないことを考えると、ここで女子学生の理科教育に一石を投じても劇的な成果は望めないであろう。これは長期的視点で地道に継続していくべきことであるが、即効薬にはなりそうもない。眼前の問題から枝葉をそぎ落とし、後に残る焦眉の課題は、結局のところ、大学の理学・工学系女子学生を増やすことであり、これに尽きるのではないか。小中高校と年を重ねるにつれて女子生徒が男子生徒に比して一際速やかに理科離れを起こす原因は、社会全体に蔓延する女子生徒に対するステレオタイプや、いわゆる女らしさの追求をよしとする女子生徒の集団圧力、そして女子に対する親兄弟の特別の期待など、一人一人に内部化されたジェンダーバイアスがその根本的な原因であろう。だからといって、ジェンダーバイアスを目の敵にして立ち向かってみても、砂上に楼閣を作る空しい戦いに違いない。なぜなら、ジェンダーバイアス自身が、社会が生み出す一つの価値観であり、ジェンダーバイアスが絶対的な観念として存在し、社会がその上に作り上げられるものではないからである。ジェンダーバイアスそのものを問題視して、直接対峙することではなく、それを生み出す社会メカニズムを、時代の要請にしたがって変革することのほうが遥かに建設的であり、勝算のもてる試みであろう。

<大学入学定員男女同数化のすすめ>
大学の理学・工学系に女子学生を呼び寄せ、ひいては女性研究者を増加する抜本的な積極的是正措置として、大学の各学部の入学定員を男女同数とすることを提案したい。東京大学を筆頭に、トップ大学が率先して入学定員を男女同数にするのである。男女に割当枠を設定するノルウェー型の極めてアグレシブな積極的是正措置である。学歴・偏差値偏重が根強く支配する日本の小中高校教育の現状をみれば、その効果が如何に劇的であるかは想像に難くない。10年を待たずに、大学自身はもとより、産業界の様相も一変することは請け合いである。もちろん、同数化直後は、もともと女子学生が少ない理学・工学系では、男子にくらべて成績の劣る女子学生も受け入れることになるだろうが、日本人の学歴・偏差値における上昇志向の強さと、そもそも高校初年では男女に理系能力の差がないことを考えれば、3年程度の短時間のうちに、男女の成績は拮抗するようになるに違いない。また、以前にもまして厳しい選別を受けることになる男子学生は、さらに競争が激化するために、少子化による大学全入時代にあっても、学力レベルの維持向上が望めるのだから、一石二鳥というべきであろう。また、トップ大学が男女に同じ広さで門戸を開放することは、女性の社会進出を心理面で後押しする力強い社会的メッセージになるに違いない。

男女定員同数化によって、理工系大学・大学院の卒業生における女性比率は、5年から10年の間で、10%~20%の現状から50%近くにまで、飛躍的に拡大することになる。企業、研究機関、大学における研究者の採用において、優秀な女性科学技術者の応募があまりにも少ないという、科学技術における男女共同参画の致命的な問題点は、これで自動的に解消する。採用はあくまで男女平等に能力本位で行えばよい。男女共同参画学協会連絡会の要望でも、第三次科学技術基本計画(案)でも、女性研究者の採用比率に数値目標と達成期限を設定することがうたわれている。しかし、優秀で意欲ある人材のプールが決定的に不十分な状況を放置したままで、いくら採用枠や期限を設けてみても、それは実質的に達成不可能な目標になるか、職に要求される能力に届かない人材を逆差別的に採用して企業や研究機関の本来のパフォーマンスを阻害したり、研究コミュニティーのモラルや士気の低下を引き起こすという副作用のほうが大きい。さらに、男女共同参画学協会連絡会が要望するように、女性研究者を女性であるという理由だけで予算面で優遇するような研究助成が行われれば、研究という活動が本来的持っている進歩性や独創性という、科学に内在する一元的な価値基準を混乱させ、”女性”をだしに研究費の獲得を狙うような悪行を誘導しかねない。独立行政法人化で外部資金の獲得を至上命題と意識する大学や研究機関の最近の拝金的挙動を見るにつけ、そのような懸念をますます強く抱くのである。現状で、女性採用の数値目標の設定は、いわば枯れかかっている川の水量を増やすために、河口堰を開口するのと同じで、水源を育てて上流の水量を確保しないかぎり、対症療法としてすら成立しない。それでも無理に開門すれば、底に溜まったヘドロが海に流れ出すだけだ。森に木を育てて豊かな水源を確保し、支流への流れを適切に調整して、本流を再生するのが本道というものだろう。複雑に絡み合った社会を相手にする積極的是正措置は、しっかりと急所を押さえて、その後の良い流れが自然に生ずるようなものでなくてはならない。その意味で、男女共同参画学協会連絡会の要望には、とても合格点は与えられない。

大学入学定員を男女同数とすることは、直接的に小中高校の女子生徒に理科への興味を引き起こさせることを狙ったものではない。上記のとおり、このような直接的取り組みは飽和状態に近く、そのターゲットとされる女子学生も実のところ食傷ぎみではないか。入学定員男女同数化は、日本の高い教育熱、とくに有名大学に入ることを学習の目標とするような受験社会の風土をエネルギー源として利用して、理工系学部にも女子学生を呼び込むというレバレージ戦略である。やり方が不純であるとしても、ひとたび女子学生の理工系への流れを作り出し、職業としての科学技術が本来もっている魅力に気づくチャンスを与えれば、その後は自ずとあるべき道が開けることが期待できるのである。それがまた、人事的に閉塞状態にある大学の自己改革にもつながっていくはずだ。

男女平等を実現するために、男女を差別するのは自己矛盾であるという反対もあるであろう。また、入試の成績順に合格者を決めないのは差別だという意見もあろう。しかし、固定化した社会状況を強権的に変革して、新しい時代に即した社会をつくるために、必要最小限の方策として考え抜かれた積極的是正措置であり、男女学生の成績差が無くなれば、自然と消滅する時限的な性格をもったものである。同じ男女割当枠の設定であっても、幼稚園でそれを行ったときに、異議を唱える者はいないであろう。強制的な積極的是正措置を導入するにあたって、できるだけ多くの人が同じ潜在的能力と可能性を持つことを仮定できる若年段階にそれを設定すべきである。既に社会に出た女性研究者を優遇することよりも、大学入学者を優遇することの方が、遥かに社会的害が少なく、合目的で、有効性があるのである。また、税金で運営される国立大学法人における入学者選考の公平性は、必ずしも入試の成績順だけに頼る必要はない。現状でも、AO入試をはじめとして、多様な基準での選考が一般化しているし、もっと基本的に、男と女という社会を構成する対等なパートナーが、応分の教育機会を得るという、成績以外の公平性の基準も大いに理があると思うのである。

積極的是正措置の先進国である米国では、大学・大学院における女子学生割合が、理工系においても着実に高まってきており、それが社会に対する女性研究者の供給源として、良い循環が生まれている[8.9]。過去40年にわたって大学で科学技術(社会科学を含む)を専攻する女性は増えつづけており、現在では、男女ほぼ同数の20万人の卒業生を毎年送りだしている。大学院では女性比率が下がるものの、科学技術での博士号取得者の37%を女性が占めるに至っている。大学院生数では女性が41%となっている。図4に示したとおり、女性大学院生数は、科学技術のどの分野についても増加傾向にあり、とくに工学、計算機科学、生命科学では顕著な増加を示している。これに対して、男性大学院生数は、計算機科学を除く、全分野でわずかずつ減少傾向にある。このように女性の進出は著しく、例えば工学の中でも、従来は女性が敬遠しがちであった電気・電子工学において、1994年から2001年の間に50%もの学生数の増加が見られることは注目に値いする。しかしながら、絶対数でみるかぎり、生命科学については男女が均衡しているのに対して、女性が工学よりも心理学、社会科学をより好み、男性は逆の傾向を根強く持ち続けていることを見て取れる。米国では、大学入試において、女性やマイノリティを対象に比較的マイルドな積極的是正措置を30年にわたって実施した結果として、科学技術への女性進出が着実に進展してきたのである。


米国大学院における分野別男女学生数の推移

図4.米国大学院における科学技術分野別男女学生数の推移

National Science Foundation(NSF), Women, Minorities and Persons with Disabilities in Science and Engineering, Graduate Enrolment, Female S&E graduate students, by field, citizenship, and race/ethnicity: 1994–2001およびMale S&E graduate students, by field, citizenship, and race/ethnicity: 1994–2001より作成[8]

<エピローグ>
科学技術立国を、男女が協働して支えるようになれば、これまでと全く違う産業社会が現出するのではないだろうか。研究という行為が、無から有を生ずることの喜びに裏打ちされ、全人格をかけた創造作業であり、かつ世界的な競争にもさらされている以上、(一部の識者が言うように)女性研究者の増加がすなわち家庭と仕事の両立を意味するという単純な図式が成立するのかどうか、私個人としては疑問をもっている。しかし、女性の増加とともに、外国人研究者も増加して、研究環境の人的多様化が進行すれば、より闊達で良い意味でのゆとりと奥行きを持った研究文化が実現することも期待できる。これは自由な発想を引き出す良い効果があるかもしれない。職業としての研究の素晴らしさは、知識と物を通じて、社会に貢献する永続的な価値を生み出すことが出来ることであり、それが日本という国の本領に重なるのである。

国際社会で尊敬される"ジャパンブランド"を生み出し、支えてきたのは、トヨタ、パナソニック、ソニーなどの日本を代表する大メーカーや、クラフトマンシップあふれる自転車のシマノなど中堅企業、そしてユニークな技術を持つ無数の中小企業である。不断の技術革新に裏打ちされた優れた品質、国際競争力のある価格、そしてキラリと光る先進的な製品コンセプトを生み出して世界をリードし続けてきた、多くの製造企業と、その経済力が生み出す国際的影響力、そして何より企業を作り上げた人こそが日本の財産である。特徴ある歴史文化や、全体として勤勉で礼儀を重んじる国民性も、国としての品格に一役買っていることも確かである。そこにジャパンスタイルの研究が加わることで、日本が世界の研究文化の交差点にまで成長することを期待したい。

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脚注、参考文献

[1]平成17年科学技術研究調査

[2]我が国の就業者総数6409万人を用いた[労働力調査(速報)平成17年10月結果の概要総務省統計局より]。

[3]「科学技術指標 - 日本の科学技術の体系的分析 -平成 16 年版」文部科学省

[4]女性採用の数値目標を定めるような強い積極的是正措置は、米国ではAffirmative action, 英国ではPositive discriminationと呼ばれる。我が国では、この意味の積極的是正措置をPositive actionと呼ぶこともあるが、米国ではAffirmative actionとPositive actionは異なる意味で用いられており、後者は機会の均等を実現するための逆差別(Reverse discrimination)を含まない施策を指し、前者に比べてより間接的なアプローチをさす。

[5] 我が国には、積極的是正措置の歴史がなく、その経験不足と未熟な人権感覚とがあいまって、物事が国際水準から隔たった脇道に逸れるきらいがある。男女共同参画における積極的是正措置をめぐる論議では、往々にして積極的是正措置が持つ基本的人権の制限や逆差別などの負の側面には目をつぶり、「女性に良いことは誰にとっても良いことだ」をスローガンにした、ナイーブで「目的のためには手段を選ばず」式の暴論が幅をきかせている。世界に類例のない”日本オリジナル”の積極的是正措置ともいえる「女性専用車」などはその好例であって、米国流の積極的是正措置の要件もほとんど満たさないもので、日本社会のお粗末な人権意識を露呈する貧策というほかない。有効性の確保と検証に鉄道会社が全然意欲をもたず行政がそれを放置していることも無責任だが、最も大きな問題は、「女性専用車」が公正性の要件をどれ一つとして満たさないことである。専用車そのものが、1960年代以前の米国の人種隔離を思わせるような完全な”割当性”であり、 車内通報装置・警告装置の設置や、警備員の増強など、より人権に配慮した普通の”代替”手段は無視され、画一的な運用が固定化していて乗客の状況に応じた”柔軟性”はなく、女性専用車が廃止されるための達成目標とその実現手段、タイムテーブル(時限性)もない。また、「女性専用車」による不便は、たまたまその線を利用する男性客、なかでもその車両を利用してきた男性高齢者・身障者に集中的に及ぼされることから、不利益の”均衡性”もないのである。このような時代錯誤の逆差別を許してしまうのも、我が国の貧困な人権感覚にそのルーツがあると言えよう。

[6] 家庭生活と仕事の両立が困難なために途中退職をよぎなくされ、その結果として女性研究者が少ないという面も否定できないが、大学理工系の女子学生割合と、女性研究者の割合が均衡しているという事実は、(女性が研究者として優先的に採用されているという仮定をしない限り)新たな女性研究者人材の供給不足が、根本的な原因であることを示している。

[7]「学校基本調査」文部科学省

[8]National Science Foundation(NSF), Women, Minorities and Persons with Disabilities in Science and Engineering

[9] The National Academies, Committee on Women in Science and Engineering

2005年11月18日

かすむ実像:男女共同参画社会 (その1)

横山 浩

男女共同参画がいま、日本社会を語るキーワードの一つとして存在感を増している。平成11年の「男女共同参画社会基本法」の施行以来、政界や行政機関をはじめとして、職場、学校、家庭、地域など、生活空間のあらゆる場面において、男女共同参画の実現を目指して、さまざまな施策が具体的な姿を現している。全国の都道府県、市町村は、一方では財政難を背景に「小さな政府」への圧力が更に高まるなかで、男女共同参画基本計画(平成12年)の求めにしたがって、相次いで男女共同参画センターなどの組織を設置し、平行して「男女共同参画社会」に向けたアクションプランの策定を急でいる。10月31日に発足した第3次小泉改造内閣では、大学から政界に転身した猪口邦子氏が少子化・男女共同参画担当相に就任し、「男女共同参画社会」への動きは今後さらに加速されることになろう。

では改めて「男女共同参画社会」とは何なのか。内閣府男女共同参画局[1]によると、男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」と定義されている。日本国憲法にはもともと、法の下での平等、性差別の禁止などが基本的人権として規定されている。しからば「男女共同参画社会」とは、機会の均等が保障され、性差別がない、憲法の理念を体現した理想郷を意味するのではないか。私は長い間、ナイーブにそう思い込んでいたが、どうやら実態はそれほど単純ではないらしい。

「男女共同参画社会」のために、国がどれほどの予算を使っているかご存知だろうか。平成17年度「男女共同参画推進関係予算概算要求額(総括表)」によると、それは総額10兆6290億円(一般会計約3兆円、特別会計約7兆円)である。この額は、国家予算(一般会計)85兆円の実に12%、国債費などを除いた実質的な可処分予算である一般歳出48兆円に対しては20%にも相当する莫大なものである。なぜこれほどの予算が。「男女共同参画」推進のために必要なのか。そのからくりは単純で、男女共同参画推進関係予算には、厚生年金、国民年金、介護給付などの高齢者の生活支援予算や、児童手当、保育所運営費(厚生労働省)、歩道のバリアフリー化経費(国土交通省)、幼稚園、専修学校への私学助成から放送大学、国立青年の家の運営費(文部科学省)まで、およそ常識的には男女共同参画とは直結しない支出がその大半を占めているからに他ならない。年金や介護給付は、社会における男女共同参画がどうであろうが必須の経費であるし、教育やバリアフリー化も同様である。男女共同参画が社会のあらゆる側面に及ぶという根深さを逆手にとって、男女共同参画と一縷の関連をこじつけては、トレンドである「男女共同参画推進関係予算」の大きなバスケットに事業を放り込んで予算確保を狙っていると疑われかねない実態が透けて見えるのだ。

憲法の理念である性差別の禁止をあからさまに否定する人は誰もいないだろう。ところが、夫婦別姓、配偶者控除の是非、積極的是正措置、性別役割分業、育児負担、介護負担、女性専用車など、個別・具体的な問題になると意見百出で議論は収斂しない。男女共同参画の本丸である性差別の問題すら、総論は賛成でも、各論となると、露骨に反対はしないまでも、人それぞれの価値観や人生観、社会観に直に触れる微妙な問題となって社会的コンセンサスを得ることが急に困難になるのである。「男女共同参画社会」がクローズアップされてきた背景には、一般に、女性の社会進出、権利意識の高揚、国際婦人年など、女性の地位向上に向けた過去半世紀にわたる社会運動があると言われている。しかしその一方で、わが国で急速に進む少子化、高齢化、それに伴う人口減少と労働力の低下、年金制度の危機などの社会問題がここにきて一気に顕在化し、その起死回生の策として急浮上してきたのが、眠れる労働力である女性の活用であることも見逃せない事実である。元来は全くの別物であった少子高齢化と女性の地位向上が、”女性の社会化”を唯一の共通基盤として同床異夢を楽しんでいるのが、今日の「男女共同参画」の実態ではなかろうか。第3次小泉改造内閣で初めて登場した少子化・男女共同参画担当相であるが、元来次元の異なる”少子化”と”男女共同参画”を強引に結びつけることに何らの違和感をも感じない風潮に、今日の「男女共同参画社会」をめぐる複雑な社会状況が象徴されている[2]。

そういった目で、先に引用した男女共同参画社会の定義を見直してみると、それを作り上げた人々の多様な思惑が見えてくる。「男女が、社会の対等な構成員として..中略..共に責任を担うべき社会」という下りは、「女も男と同じように働いて税金を納めろ」というメッセージであり、女性を埋もれた労働力とみて、少子高齢化対策の尖兵にしようという、経済界や政界に流布している考え方のあらわれであろう。もともと、既婚女性の専業主婦化は、戦前の農村社会から、都市・産業・核家族中心の社会への過渡期において、戦後の高度経済成長を支えたエコノミックアニマルと呼ばれた男性サラリーマンの終身雇用、長時間労働、企業への忠誠心の高揚を、表面的なコストをかけずに支えるものとして、国策的に誘導されてきたものであることを考えると、少子高齢化という社会変化を契機として視線が180度回転したとしても、それが女性の基本的人権という高尚な理念から発したものとは、にわかには納得しがたいものがある[3]。

他方、「前略...自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受...後略」の下りは、女性の人権擁護を一義的に念頭においたものであることは明らかである。家庭、地域、職場などでの固定的な性別役割をなくし、女性の社会進出を容易にし、男性と対等な相応しい社会的地位を得られる社会を作ることがその意図であろう。「自らの意思によって」との但し書きがあるものの、社会で活躍する女性というロールモデルを想定していることが読み取れる。しかし、内閣府が平成16年に実施した意識調査によれば、その是非はともかくとして、「夫は仕事、妻は家庭」という考えの持ち主は、過去25年の間に大幅に減少したとは言え、男女を問わずいまだに半数近くを占める大きな勢力である(下図参照)。男女共同参画の議論のなかで、こういった人々は”守旧派”とか”反対勢力”とかレッテルを貼られて切り捨てられる傾向が強いことは忘れてはならないだろう。事実、男女共同参画推進を主導する審議会には、多くの女性議員が参加しているものの、ほぼ全員が、女性にとってのさまざまな困難を乗り越えて社会的に指導的な立場にまで到達した、いわば成功した女性達であり、その発言内容は、自由意思に基づく多様な人生の選択と言いつつも、自らのライフスタイルをこれからの女性のあり方に重ね合わせるきらいが色濃く感じられるものが多い。専業主婦の委員も皆無ではないが、発言は散発的で、議論の趨勢を左右するものにはなっていない。このような中では、女性の社会進出と権利確保の方向に、議論が先鋭化する傾向は否めない。

例えば、ラジカルなフェミニズム論者は、人類の歴史をつうじて女性を虐げてきた諸悪の根源が社会的・文化的性別(ジェンダー)にあるとして、それを抹殺するための好機として男女共同参画を位置づけているようだ。だが、ジェンダーが、雌雄という生物進化の一つの到達点としての生物的性から派生しているものである以上、人間が生物的性を捨て去らない限り、それを完全に抹殺してしまうことは不可能であろう。高等知能を持たない、野生動物においてすら、ライオンの群れではライオンなりの、日本猿の群れでは日本猿なりの、社会化された性別が存在している。人間とちがって、動物はそれに疑問や矛盾を感じたりしないだけだ。文化人類学者が、さまざまな社会で、日本に住む我々からは創造もできないほどの多様で異質なジェンダーがあり得ること(ジェンダーの相対性)をいくら示したとしても、ジェンダーが存在しない(ジェンダーフリー)[4,5]という価値観不在の無色透明の社会というものが実在し得るという証明にはならない。むしろ、ジェンダーが生物的性別に起源をもつ社会的観念あるいは価値観であることを考えれば、ジェンダーを消滅することはまさしく人の精神の浄化に等しく、歴史上如何なる独裁者もそれに首尾よく成功したものはいない。

ところが、地方自治体レベルでの男女共同参画推進のなかでジェンダーフリー論が暴走し、やれ「七五三」は男らしさ、女らしさを子供に植え付ける悪しき風習であるとか、男子にはブルー、女子にはピンクの服を着せるのは性差を色に不当に結びつけるものでけしからんとか、一般の人々が首を傾げたくなるような、文化や伝統、信教や価値観にまで土足で踏み込むような議論が一部に展開された。このような行き過ぎが、国民一般の男女共同参画ばなれを引き起こして、女性の労働力化に悪影響がでれば元も子もないという危機感から、内閣府男女共同参画局は以下のような公式見解を公表して、反「男女共同参画」論の沈静化に努めたのである。
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男女共同参画は、個人がその内面において何を「男らしさ」、「女らしさ」と考えるかについて関与しようとするものではなく、また、伝統や文化などを否定しようとするものでもない。ただし、例えば何が「女らしい」、「男らしい」かという価値判断が社会制度、慣行等に反映されることによって、一人一 人の個人がその個性や能力を十分に発揮することが妨げられることなどがある。男女共同参画社会は長い伝統や文化などを失うことなく大切にしながら、男女の人権が侵される部分を改善すること、個性・能力を発揮する上での阻害要因を 是正することなどにより実現されるものである。
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要するに、性差の存在を是認した上で、なおかつ社会的な男女間の公平性を実現するのが男女共同参画の目標であるということである。憲法の理念に照らして、至極まっとうと言うべきであろう。しかし、これは言うは易く行なうは難い。高邁な人格を形成することで、性差を認識しつつも、より高次の理念を実感して、性差を超越した行動をとることができる国民を育てていくことにしか、本当の意味でその実現の路はないのではないか。高い人間性と倫理観を備えた尊敬される国になることである。それは、男女共同参画だけとどまらず、外交から家庭、個人まで、あらゆる側面に及ぶ国と国民の大改造である。これは、女性の権利を声高に主張してジェンダーフリーという精神浄化を画策することでもなければ、女性を単なる労働力としか見ない卑属な経済至上主義でもない。いわんや、男女共同参画という大儀に便乗した予算どりであるはずもない。女性の差別撤廃を一義的に志向する人々の間でさえ、根本的な思想や実現への道筋について鋭い対立が存在しているように見える。今こそ、男女共同参画の周りに渦巻くさまざま思惑や権益を取り去り、その実像を描き出す作業に取り掛かるときが来ているのではないだろうか。

次回かすむ実像:男女共同参画社会(その2)では、平成17年版男女共同参画白書で大きく取り上げられた科学技術における男女共同参画に焦点をあてて、その現状と課題を論じてみたい。

意識調査結果
図1.性別役割に関する意識の変化

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脚注、参考文献

[1] 内閣府男女共同参画局は、平成13年1月の省庁改革の一環として内閣総理大臣を長とし設置された内閣府において、国政上の重要課題である「男女共同参画社会の形成の促進」の総合的な推進を担う専門部署である。

[2] 女性の社会進出と少子化対策が相反するものであれば、そもそも少子化と男女共同参画をこのように合体させること自体が、全く無意味で自己矛盾を持つものとなってしまう。そこで、この二つが整合する社会事象であることを示す論拠として、女性の労働力率と出生率の2000年時点での国際比較データ(図2)がしばしば用いられている。労働力率と出生率との間に正の相関関係がある、すなわち女性が社会に出て働くほど出生率は上昇し、少子化が食い止められる、だから女性の社会進出を促進しよう、というのがこの図の読み方と言われている。右肩あがりの回帰直線を強引に引いているところに、見るものの目を誘導しようという意図が感じられなくもない。私自身、理工系の者としてプロットを素直に眺めると、各国のポイントは直線の上下に大きく分散しており、確かに相関係数はR=0.55という低い値である。対象国の選択の問題には目をつぶるとしても、各国の属性が全くコントロールされずこれほどばらついたデータから、直線関係を引きだすのは、基本的な誤りを犯しかねない乱暴で粗雑なやり方に思われる。事実、図2と同時に報告書に掲載されている、過去の労働力率・出生率プロット(男女共同参画局報告書、p.5 図表1-2-2)では、1970年には、労働力率と出生率の間には弱い”負”の相関があり、それが15年後の1985年には相関が消失(R=0)し、ようやく2000年になって、上記の正相関が現れたことが述べられている。その要因については、いくつかの仮説が提示されているものの、この事実は少なくとも、「労働力率が高いほど出生率も高い」という主張には原理的な普遍性はないことを明瞭に物語っている。事の真実に至るためには、少なくとも各国の属性をきちんと考慮に入れた、より緻密で深い検討が必要であることを示している。感覚的にはより確かな予測力が期待できる、国ごとの時系列データも、同じ報告書に掲載されているが、これを縦覧するかぎり、大略の傾向としては時とともに労働力率は上昇し、出生率は下がり続けていることが分るのである。このように客観性を装いつつ、衣の下にはほとんど科学的精神が存在しないことが露呈するような底の浅い議論が展開されることも、男女共同参画のイメージを不透明にしている一因であろう。

出生率と女性労働力率の関係
図2.出生率と女性労働力率の国際比較
「少子化と男女共同参画に関する社会環境の国際比較報告書」平成17年9月 男女共同参画会議 少子化と男女共同参画に関する専門調査会、 図表1-2-1より転載

[3] 女性専用車が都市圏の私鉄で最近急速に導入されている。表向きは痴漢対策など、女性に対する迷惑行為の防止のための緊急避難的な措置として、男性の人権を制限するだけの合理性があると説明されているものの、実態としてその実効性や必然性の検証も、その代替手段の検討もおざなりのままに放置されている。去る8月24日に開業したつくばエクスプレスは、開業前から女性専用車の導入を利用見込みだけ(混雑実態の調査無し)で決定した全国初のケースとなった。その後の実態としては、痴漢行為が頻発するような混雑は、極一部の時間帯を除き皆無であるにも関わらず、女性専用車はそのままに運行を続けている(上りは始発から9時まで。下りは18時から終電まで)。国土交通省の指導や要請があったかどうかは知らないが、こうなると、女性専用車は、一鉄道会社としての女性の人気とりか、女性労働力を家庭から引き出そうとする労働政策の一翼ではないかと思われてくる。他の私鉄で言われてきたように、混雑が緩和すれば女性専用車は廃止されるはず、というのが誤った思い込みであることをつくばエクスプレスの状況は示していると言えよう。合理性を欠いた女性専用車の運用もまた、男女共同参画のイメージを不透明にする一因である。

[4] 「ジェンダーフリー」の用語に関しては、例えば、山口智美:「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源(1)& (2),くらしと教育をつなぐWe 2004年11月号&2005年1月号

[5] 男女共同参画の世界でしばしば登場する「ジェンダーフリー」という用語は、”「社会的性差(ジェンダー)の押し付けから自由(フリー)になる」というような意味の和製英語”である。ジェンダーフリー(gender free)が英語として「社会的性別(ジェンダー)が無い」という意味を一義的に持つ以上、それとは似て非なる意味づけをされた日本の業界用語(jargon)としての「ジェンダーフリー」は、国際的にも通用しない不適切な用語と言わざるを得ない。このような業界用語を使うことは、本来あるべき、業界を超えた幅広い議論をスタートラインから混乱させるだけで、建設的な議論の妨げにしかならない。早急に適切な用語に改められるべきである。