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2005年11月18日

かすむ実像:男女共同参画社会 (その1)

横山 浩

男女共同参画がいま、日本社会を語るキーワードの一つとして存在感を増している。平成11年の「男女共同参画社会基本法」の施行以来、政界や行政機関をはじめとして、職場、学校、家庭、地域など、生活空間のあらゆる場面において、男女共同参画の実現を目指して、さまざまな施策が具体的な姿を現している。全国の都道府県、市町村は、一方では財政難を背景に「小さな政府」への圧力が更に高まるなかで、男女共同参画基本計画(平成12年)の求めにしたがって、相次いで男女共同参画センターなどの組織を設置し、平行して「男女共同参画社会」に向けたアクションプランの策定を急でいる。10月31日に発足した第3次小泉改造内閣では、大学から政界に転身した猪口邦子氏が少子化・男女共同参画担当相に就任し、「男女共同参画社会」への動きは今後さらに加速されることになろう。

では改めて「男女共同参画社会」とは何なのか。内閣府男女共同参画局[1]によると、男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」と定義されている。日本国憲法にはもともと、法の下での平等、性差別の禁止などが基本的人権として規定されている。しからば「男女共同参画社会」とは、機会の均等が保障され、性差別がない、憲法の理念を体現した理想郷を意味するのではないか。私は長い間、ナイーブにそう思い込んでいたが、どうやら実態はそれほど単純ではないらしい。

「男女共同参画社会」のために、国がどれほどの予算を使っているかご存知だろうか。平成17年度「男女共同参画推進関係予算概算要求額(総括表)」によると、それは総額10兆6290億円(一般会計約3兆円、特別会計約7兆円)である。この額は、国家予算(一般会計)85兆円の実に12%、国債費などを除いた実質的な可処分予算である一般歳出48兆円に対しては20%にも相当する莫大なものである。なぜこれほどの予算が。「男女共同参画」推進のために必要なのか。そのからくりは単純で、男女共同参画推進関係予算には、厚生年金、国民年金、介護給付などの高齢者の生活支援予算や、児童手当、保育所運営費(厚生労働省)、歩道のバリアフリー化経費(国土交通省)、幼稚園、専修学校への私学助成から放送大学、国立青年の家の運営費(文部科学省)まで、およそ常識的には男女共同参画とは直結しない支出がその大半を占めているからに他ならない。年金や介護給付は、社会における男女共同参画がどうであろうが必須の経費であるし、教育やバリアフリー化も同様である。男女共同参画が社会のあらゆる側面に及ぶという根深さを逆手にとって、男女共同参画と一縷の関連をこじつけては、トレンドである「男女共同参画推進関係予算」の大きなバスケットに事業を放り込んで予算確保を狙っていると疑われかねない実態が透けて見えるのだ。

憲法の理念である性差別の禁止をあからさまに否定する人は誰もいないだろう。ところが、夫婦別姓、配偶者控除の是非、積極的是正措置、性別役割分業、育児負担、介護負担、女性専用車など、個別・具体的な問題になると意見百出で議論は収斂しない。男女共同参画の本丸である性差別の問題すら、総論は賛成でも、各論となると、露骨に反対はしないまでも、人それぞれの価値観や人生観、社会観に直に触れる微妙な問題となって社会的コンセンサスを得ることが急に困難になるのである。「男女共同参画社会」がクローズアップされてきた背景には、一般に、女性の社会進出、権利意識の高揚、国際婦人年など、女性の地位向上に向けた過去半世紀にわたる社会運動があると言われている。しかしその一方で、わが国で急速に進む少子化、高齢化、それに伴う人口減少と労働力の低下、年金制度の危機などの社会問題がここにきて一気に顕在化し、その起死回生の策として急浮上してきたのが、眠れる労働力である女性の活用であることも見逃せない事実である。元来は全くの別物であった少子高齢化と女性の地位向上が、”女性の社会化”を唯一の共通基盤として同床異夢を楽しんでいるのが、今日の「男女共同参画」の実態ではなかろうか。第3次小泉改造内閣で初めて登場した少子化・男女共同参画担当相であるが、元来次元の異なる”少子化”と”男女共同参画”を強引に結びつけることに何らの違和感をも感じない風潮に、今日の「男女共同参画社会」をめぐる複雑な社会状況が象徴されている[2]。

そういった目で、先に引用した男女共同参画社会の定義を見直してみると、それを作り上げた人々の多様な思惑が見えてくる。「男女が、社会の対等な構成員として..中略..共に責任を担うべき社会」という下りは、「女も男と同じように働いて税金を納めろ」というメッセージであり、女性を埋もれた労働力とみて、少子高齢化対策の尖兵にしようという、経済界や政界に流布している考え方のあらわれであろう。もともと、既婚女性の専業主婦化は、戦前の農村社会から、都市・産業・核家族中心の社会への過渡期において、戦後の高度経済成長を支えたエコノミックアニマルと呼ばれた男性サラリーマンの終身雇用、長時間労働、企業への忠誠心の高揚を、表面的なコストをかけずに支えるものとして、国策的に誘導されてきたものであることを考えると、少子高齢化という社会変化を契機として視線が180度回転したとしても、それが女性の基本的人権という高尚な理念から発したものとは、にわかには納得しがたいものがある[3]。

他方、「前略...自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受...後略」の下りは、女性の人権擁護を一義的に念頭においたものであることは明らかである。家庭、地域、職場などでの固定的な性別役割をなくし、女性の社会進出を容易にし、男性と対等な相応しい社会的地位を得られる社会を作ることがその意図であろう。「自らの意思によって」との但し書きがあるものの、社会で活躍する女性というロールモデルを想定していることが読み取れる。しかし、内閣府が平成16年に実施した意識調査によれば、その是非はともかくとして、「夫は仕事、妻は家庭」という考えの持ち主は、過去25年の間に大幅に減少したとは言え、男女を問わずいまだに半数近くを占める大きな勢力である(下図参照)。男女共同参画の議論のなかで、こういった人々は”守旧派”とか”反対勢力”とかレッテルを貼られて切り捨てられる傾向が強いことは忘れてはならないだろう。事実、男女共同参画推進を主導する審議会には、多くの女性議員が参加しているものの、ほぼ全員が、女性にとってのさまざまな困難を乗り越えて社会的に指導的な立場にまで到達した、いわば成功した女性達であり、その発言内容は、自由意思に基づく多様な人生の選択と言いつつも、自らのライフスタイルをこれからの女性のあり方に重ね合わせるきらいが色濃く感じられるものが多い。専業主婦の委員も皆無ではないが、発言は散発的で、議論の趨勢を左右するものにはなっていない。このような中では、女性の社会進出と権利確保の方向に、議論が先鋭化する傾向は否めない。

例えば、ラジカルなフェミニズム論者は、人類の歴史をつうじて女性を虐げてきた諸悪の根源が社会的・文化的性別(ジェンダー)にあるとして、それを抹殺するための好機として男女共同参画を位置づけているようだ。だが、ジェンダーが、雌雄という生物進化の一つの到達点としての生物的性から派生しているものである以上、人間が生物的性を捨て去らない限り、それを完全に抹殺してしまうことは不可能であろう。高等知能を持たない、野生動物においてすら、ライオンの群れではライオンなりの、日本猿の群れでは日本猿なりの、社会化された性別が存在している。人間とちがって、動物はそれに疑問や矛盾を感じたりしないだけだ。文化人類学者が、さまざまな社会で、日本に住む我々からは創造もできないほどの多様で異質なジェンダーがあり得ること(ジェンダーの相対性)をいくら示したとしても、ジェンダーが存在しない(ジェンダーフリー)[4,5]という価値観不在の無色透明の社会というものが実在し得るという証明にはならない。むしろ、ジェンダーが生物的性別に起源をもつ社会的観念あるいは価値観であることを考えれば、ジェンダーを消滅することはまさしく人の精神の浄化に等しく、歴史上如何なる独裁者もそれに首尾よく成功したものはいない。

ところが、地方自治体レベルでの男女共同参画推進のなかでジェンダーフリー論が暴走し、やれ「七五三」は男らしさ、女らしさを子供に植え付ける悪しき風習であるとか、男子にはブルー、女子にはピンクの服を着せるのは性差を色に不当に結びつけるものでけしからんとか、一般の人々が首を傾げたくなるような、文化や伝統、信教や価値観にまで土足で踏み込むような議論が一部に展開された。このような行き過ぎが、国民一般の男女共同参画ばなれを引き起こして、女性の労働力化に悪影響がでれば元も子もないという危機感から、内閣府男女共同参画局は以下のような公式見解を公表して、反「男女共同参画」論の沈静化に努めたのである。
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男女共同参画は、個人がその内面において何を「男らしさ」、「女らしさ」と考えるかについて関与しようとするものではなく、また、伝統や文化などを否定しようとするものでもない。ただし、例えば何が「女らしい」、「男らしい」かという価値判断が社会制度、慣行等に反映されることによって、一人一 人の個人がその個性や能力を十分に発揮することが妨げられることなどがある。男女共同参画社会は長い伝統や文化などを失うことなく大切にしながら、男女の人権が侵される部分を改善すること、個性・能力を発揮する上での阻害要因を 是正することなどにより実現されるものである。
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要するに、性差の存在を是認した上で、なおかつ社会的な男女間の公平性を実現するのが男女共同参画の目標であるということである。憲法の理念に照らして、至極まっとうと言うべきであろう。しかし、これは言うは易く行なうは難い。高邁な人格を形成することで、性差を認識しつつも、より高次の理念を実感して、性差を超越した行動をとることができる国民を育てていくことにしか、本当の意味でその実現の路はないのではないか。高い人間性と倫理観を備えた尊敬される国になることである。それは、男女共同参画だけとどまらず、外交から家庭、個人まで、あらゆる側面に及ぶ国と国民の大改造である。これは、女性の権利を声高に主張してジェンダーフリーという精神浄化を画策することでもなければ、女性を単なる労働力としか見ない卑属な経済至上主義でもない。いわんや、男女共同参画という大儀に便乗した予算どりであるはずもない。女性の差別撤廃を一義的に志向する人々の間でさえ、根本的な思想や実現への道筋について鋭い対立が存在しているように見える。今こそ、男女共同参画の周りに渦巻くさまざま思惑や権益を取り去り、その実像を描き出す作業に取り掛かるときが来ているのではないだろうか。

次回かすむ実像:男女共同参画社会(その2)では、平成17年版男女共同参画白書で大きく取り上げられた科学技術における男女共同参画に焦点をあてて、その現状と課題を論じてみたい。

意識調査結果
図1.性別役割に関する意識の変化

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脚注、参考文献

[1] 内閣府男女共同参画局は、平成13年1月の省庁改革の一環として内閣総理大臣を長とし設置された内閣府において、国政上の重要課題である「男女共同参画社会の形成の促進」の総合的な推進を担う専門部署である。

[2] 女性の社会進出と少子化対策が相反するものであれば、そもそも少子化と男女共同参画をこのように合体させること自体が、全く無意味で自己矛盾を持つものとなってしまう。そこで、この二つが整合する社会事象であることを示す論拠として、女性の労働力率と出生率の2000年時点での国際比較データ(図2)がしばしば用いられている。労働力率と出生率との間に正の相関関係がある、すなわち女性が社会に出て働くほど出生率は上昇し、少子化が食い止められる、だから女性の社会進出を促進しよう、というのがこの図の読み方と言われている。右肩あがりの回帰直線を強引に引いているところに、見るものの目を誘導しようという意図が感じられなくもない。私自身、理工系の者としてプロットを素直に眺めると、各国のポイントは直線の上下に大きく分散しており、確かに相関係数はR=0.55という低い値である。対象国の選択の問題には目をつぶるとしても、各国の属性が全くコントロールされずこれほどばらついたデータから、直線関係を引きだすのは、基本的な誤りを犯しかねない乱暴で粗雑なやり方に思われる。事実、図2と同時に報告書に掲載されている、過去の労働力率・出生率プロット(男女共同参画局報告書、p.5 図表1-2-2)では、1970年には、労働力率と出生率の間には弱い”負”の相関があり、それが15年後の1985年には相関が消失(R=0)し、ようやく2000年になって、上記の正相関が現れたことが述べられている。その要因については、いくつかの仮説が提示されているものの、この事実は少なくとも、「労働力率が高いほど出生率も高い」という主張には原理的な普遍性はないことを明瞭に物語っている。事の真実に至るためには、少なくとも各国の属性をきちんと考慮に入れた、より緻密で深い検討が必要であることを示している。感覚的にはより確かな予測力が期待できる、国ごとの時系列データも、同じ報告書に掲載されているが、これを縦覧するかぎり、大略の傾向としては時とともに労働力率は上昇し、出生率は下がり続けていることが分るのである。このように客観性を装いつつ、衣の下にはほとんど科学的精神が存在しないことが露呈するような底の浅い議論が展開されることも、男女共同参画のイメージを不透明にしている一因であろう。

出生率と女性労働力率の関係
図2.出生率と女性労働力率の国際比較
「少子化と男女共同参画に関する社会環境の国際比較報告書」平成17年9月 男女共同参画会議 少子化と男女共同参画に関する専門調査会、 図表1-2-1より転載

[3] 女性専用車が都市圏の私鉄で最近急速に導入されている。表向きは痴漢対策など、女性に対する迷惑行為の防止のための緊急避難的な措置として、男性の人権を制限するだけの合理性があると説明されているものの、実態としてその実効性や必然性の検証も、その代替手段の検討もおざなりのままに放置されている。去る8月24日に開業したつくばエクスプレスは、開業前から女性専用車の導入を利用見込みだけ(混雑実態の調査無し)で決定した全国初のケースとなった。その後の実態としては、痴漢行為が頻発するような混雑は、極一部の時間帯を除き皆無であるにも関わらず、女性専用車はそのままに運行を続けている(上りは始発から9時まで。下りは18時から終電まで)。国土交通省の指導や要請があったかどうかは知らないが、こうなると、女性専用車は、一鉄道会社としての女性の人気とりか、女性労働力を家庭から引き出そうとする労働政策の一翼ではないかと思われてくる。他の私鉄で言われてきたように、混雑が緩和すれば女性専用車は廃止されるはず、というのが誤った思い込みであることをつくばエクスプレスの状況は示していると言えよう。合理性を欠いた女性専用車の運用もまた、男女共同参画のイメージを不透明にする一因である。

[4] 「ジェンダーフリー」の用語に関しては、例えば、山口智美:「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源(1)& (2),くらしと教育をつなぐWe 2004年11月号&2005年1月号

[5] 男女共同参画の世界でしばしば登場する「ジェンダーフリー」という用語は、”「社会的性差(ジェンダー)の押し付けから自由(フリー)になる」というような意味の和製英語”である。ジェンダーフリー(gender free)が英語として「社会的性別(ジェンダー)が無い」という意味を一義的に持つ以上、それとは似て非なる意味づけをされた日本の業界用語(jargon)としての「ジェンダーフリー」は、国際的にも通用しない不適切な用語と言わざるを得ない。このような業界用語を使うことは、本来あるべき、業界を超えた幅広い議論をスタートラインから混乱させるだけで、建設的な議論の妨げにしかならない。早急に適切な用語に改められるべきである。